「ふるさと偉人館」の創設について議会で質問させていただきました

以下は3月4日に下松市議会で行った一般質問の要旨です

地元の偉人(私はたとえばとして偉人アンケートの13人をあげた)を顕彰する施設を創る。目的は観光、付随して青少年の教育や地元の企業のアピールの場とするる。場所を光市束荷の伊藤博文公の記念館の側とする
…これが今回の提案の主旨です。
   
執行部の見解では「ユニークだがこのようなもので人を呼ぶことは難しい」と否定的な受け止め方でありました。                       が、私としては、①集客策として周南市町の偉人を集めることでスケールメリットをだせる、②幅広いジャンルの偉人を対象にしているので来場ニーズが広範になる③修学旅行や研修等を受け入れ易い企業紹介のコーナー併設することによりさらに対象を拡大できる、そして最大の集客策は④市町の工夫と住民の理解と協力…これらがポイントになると考えています。                          皆様のご意見を是非クリックしてお伝えくださいませんか。

 

要旨です。 

                                     以下、会社名も個人名も敬称を付けたい気持ちはやまやまだが略させていただく ある方の息子さんの結婚披露宴が久原房之助爺の旧宅の東京白金台の「八芳園」で行われた。中で司会者から敢えて新郎と下松市とを絡めて紹介があった。親御さんは非常に晴れがましかったとのこと  
久原房之助といえば日立の進出、地元の山田事務所との関連、下松工業高校の創立と下松市の大恩人と言える人物…この人物の認識度合いはどうであろうか
別紙の下松市内の小中学生25人のうちこの久原房之助の名前を知らないという回答が22人あった                             久原房之助は大正時代に当地に従業員18万人の大鉄鋼工場を創設して下松市を東洋のマサチューセッツしようと目論んだ大実業家である。下松にまた周南地区に住む方がこの久原房之助の大志を知らなくても良いのか、彼の生き様に学ぶことはないのか

別紙に並べた13人は郷土の出身者、いずれも亡くなられている。この方々は下松市、光市を中心してほぼ半径10キロの範囲内に生まれるか関連している。週刊現代の「立派だった日本人ベスト100人」の政治家20人の中に、1位の岸信介をはじめ佐藤栄作、宮本顕治の3人が入っている。なぜこのような人材を輩出する状況になったか…私なりに分析してみた

維新100年前の長州藩、藩は財政窮乏の中にあった。その時点で藩中枢が考えた挽回策は大きく2つ、ひとつは学問の奨励、ふたつめは産業育成
学問の奨励では藩校の充実だけでなく地域や陪臣、農民の教育にも力を注いだ。当時地域の武士の学校の「郷校」の数は日本で2番目の多さ、庶民の寺小屋の数は全国一といわれている…長州は日本一学問をする藩になったのである

産業の育成は新田や畑の開拓…山の上の上まで木を切り、石を運びだし平地にして肥やしを撒いて米をつくった。桃栗3年柿8年というが栗農家の私の実感では、3年といわれる栗でも出荷できるまでには10年はかかる…同様、まともな米ができる土壌になるまでには10年はかかるであろう
当時の百姓と藩はその10年を辛抱した。山には植林をし、田んぼの脇では梅を植えゆずを植え、みつまた、こうぞう、はぜ等を植えた。他の藩では考えられないような長期間の辛抱である

長州藩の学問奨励と産業振興という2つの施策は長州人に「学」と「辛」を植えつけた                                   文芸春秋2月号の特集「安倍晋三と長州人」では、山口県人の性格は「粘り強い 保守的 頑固」と紹介しているが、その根本は、言い換えれば「長州人のDNA」はこの維新前から100年の「学」と「辛」によって育まれたと考える          明治維新後、8人の首相をはじめ多くの偉人を輩出したことは必然であって下地があったといえる

そこで話を戻すが…私はこの周防の中央の当地はまさにこの「学」と「辛」の集積地にあると考えている。来巻でも切山でも米川で山田でも、およそ切り開くことのできる傾斜地はすべて耕作地にしていないか。また、植林している山が他所に比べて圧倒的に広がっていないか。当地に個性溢れた偉人がでている由縁はここにあるのではと考えるのである                                     維新の英傑のほとんどは萩の城下にいた上級、下級の武士である。違うのは大道の大村益次郎ぐらいであろう。しかし明治以降はこの周防の真ん中の当地が圧倒的に人材を輩出していると言っていい。しかし、多くの人はそこのことを見逃していないか。地域の偉人のことを知らない、それで良いのかということである     青少年にも大人にも当地の「宝」を認識して欲しい、そして市民に郷土意識、「長州人の誇り」を醸成して欲しい                            そのために「ふるさと偉人館」の創設を提案する 

偉人館では展示物に加えてそこをスクール形式の勉強の場を設けることにしたい そこで学ぶことを粗く想定列挙すると…                     ①その人はどのような子供であったか ②何が世にでる転機になったか ③若い頃の志は何であったか ④成功した後ふるさとにどう関わったか ⑤この地がこれだけ偉人を輩出できた理由は何か ⑥これら偉人を生んだ時代背景は何であったか…     ということになろう   

以上ふるさと偉人館を教育面から話してきた。が、しかし、私が教育面以上に期待をするのは経済効果である。このふるさと偉人館を稼ぐ仕組みにするのである
この偉人館は当地区の観光客の拠点になりうる
学生の修学旅行や研修はもちろん政治家に固定してわけではないので、たとえば
写真同好家が林忠彦を学びに、
童謡ファンがまどみちおに接したくて、
野球好きが炎のストッパーに会いたくなる
のではないか
また、保守層は岸や佐藤を、共産党のシンパは宮本顕治の書いた書簡を宝物と観るかもかもしれない
別の観点でいえば…久原房之助や出光佐三を顕彰している場所がこの国のどこかにあるかどうか

児玉源太郎館を建てたいという周南市民はたくさんいる。長岡外史顕彰館も同様である。しかし、児玉や長岡単独では呼べる人数は限られる。こうして幅広いジャンルにすればそれぞれの分野から人が呼べると考えた
狙いは宿泊にある、観光コースとして大城や笠戸ハイツに呼び込める。修学旅行や学生向けにはビジネスホテルを提供できる、滞在型で学ぶ人もでてくるかもしれない
人が動けば地産物品の販売機会もでてこよう。とにかく他所の方が訪れていただけばお金がおちる。そして、大城が成熟期になって単独で宿泊を呼べなくなった時点での抱き合わせ効果が一番の狙いである
下松市が観光に力点を置くというなら従来の名所、旧跡をめぐるだけのコースではとても役割は果たせないと思うがどうか

2月21日の公明新聞に「どうつくる地域ブランド」という特集記事があった。
その地の地域資源を発掘、活用して地元の魅力を高める「地域ブランド」として地域創生の切り札にする…との趣旨であった。その土地ならではの資源が切り札になる、「宝」としているのである
この偉人のかたまりが当地の地域ブランドとして切り札にならないかないか
そこで周南地区の協調である。前述したとおり児玉源太郎単独では、長岡外史単独では大きい需要は期待できない。周辺市町の偉人を総動員してこそ意義がある、スケールメリットとなる。場所は既存の施設がある光市の束荷に譲って良い。土地は安いし広い

人が動けば周辺市町には必ず何がしかの経済効果が生じるのは間違いない。しかしながら大切なのは前回の「1000人規模のふるさと応援団」でも触れたように、地域の住民と当地からの出身の方々とがあい俟った、たくさんのお客様が訪れて欲しいとする熱意であろう

併せて…市内には日立の工場と鉄道マニアを結びつけるテーマパークを提案する人がいる。先日の議会報告会でもそのような意見がでた
現地工場でなくこの「ふるさと偉人館」に周南地区の企業紹介コーナーが置けないか。おおがかりなものでなくても、地元の企業がその工場は何を作ってどこに持ち込んでいるか、その企業は今後何をやろうとしているか…これだけでも学びになるのではないか
たとえば…出光がこの地に目をつけた理由は何なのか 実際私は武田薬品が光工場で何を作っているの確かなことを知らない 東洋鋼鈑がトルコに進出するというが 下松工場にどう影響するか……このようなテーマで観光の側面と地域を学ぶ側面とを兼ね備えた企業を知ることのできる場所にできないか

以上申してきた…周辺市町の協調、資金の捻出…そう簡単なことではあるまい
著名な行政アドバイザーの方から聞いた話だが「ふるさと偉人館」構想は、
殊に周辺市町を巻き込んだ発想は「ふるさと創生」の求める志と一致する、助成対象になりうる…とのことである


前述の文言春秋の「安倍晋三と長州人」の中で、作家半藤一利は山口県の県歌に触れて、この県歌が県民性をよく表していると紹介している
その県歌…
『秀麗の地に偉人出で維新の偉業なせるかな誇りと使命忘れめや山口県の我ら皆』「誇りと使命忘れめや」そして「長州人の誇り」…そのことを伝える機会をつくることこそ我々の使命ではなかろうか

長文のおつきあいに感謝申し上げます。