父が94歳の誕生日に亡くなりました。午前11時、二人の息子夫婦と孫夫婦、ひ孫の計8人で涙ながらに「ハッピーバースディ」を歌いました。 その55分の後に「息を引き取る」の表現どおりに安らかに亡くなりました。闘病54日間でありました。
父の人生を追憶させていただきます。
大正10年生まれです。この1年半は現在の私の家に近い下松市花岡の老人施設のんびり村で同じ歳の妻と夫婦同じ部屋で生活しておりました。入院までは寝込むこともなく自らの足で歩いておりました。
父は6人兄弟の2番目です。全員が男の子。「産めよ増やせよ」の時代にあって表彰を受けたと祖母が自慢げに話しておりました。「山工」と呼ばれた宇部工業高校を卒業後(父はこの山口県に下松工業高校と二つしかない工業高校の冠、山工を随分誇りにしていました)「南満州鉄道」の関連会社である「華北鉄道」に就職し、「蒸気機関車の釜たき」をして、まっすぐな線路の大陸を走しっていたそうです。
昭和16年に召集されて主に満州で輸送部隊に所属して、終戦後はシベリアに抑留されました。このような戦時中の苦労話や、兵隊時代のことを話したがらない親もたくさんいると聞きますが、私の父はこの間のことを何度も何度もしてくれています。戦争や当時の政府、軍隊や上官のことを、ことさら悪く話したこともありません。生来現状受け入れ型の人間でシベリア・イルクーツクでの捕虜時代のことでさえ「皆がいうほど悲惨ではなかった」と話していました。
昭和23年復員後は、父親の威光を受けていきなり美祢市西厚保村役場の収入役となりましたが、27年に町村合併があってあっさりお役ごめんになります。その後は宇部興産伊佐セメントに勤務・・・あまりぼやきを言わない父でしたが、大学出で世間を知らない若い上司に仕える境遇には、我慢がならない出来事も多かったらしいのです。その間、戦死した長男の兄嫁と結婚して我々二人の息子をもうけています。兄嫁との結婚・・・当時はよくあったらしいのですが、それによる悲劇も耳にしています。どのような心境であったのでしょうか。
工場勤務のころから米つくりの傍ら、西厚保農協が奨励した栗栽培、加えて、しいたけやサカキに熱心取り組んでいました。働き者でした。日が長い時期には夜明けと同時に農作業をして6時半に出勤、夕方6時半に帰宅すると暗くなるまで働いていました。贅沢が嫌いでした。エビやウニなど高価なものを食するのは、罪と思っていたのではないかと思われます。酒もタバコやりませんでした。平等の意識でした。家では差別用語が厳禁でした。家長だけが良い思いをするという一時代前の田舎家の風潮は、我が家にはありませんでした。
息子には一生懸命でした。前庭には鉄棒やブランコを手製で作ってくれました。庭にボールが入らないようにフェンスを作ってくれました。小学校2年のときには自転車を買ってくれました。小学校4年のときには西鉄ライオンズファンの私を平和台球場に連れて行ってくれました。中学1年のときにはテープレコーダーを買ってくれました。いずれも私の方からせがんで頼んだものではありません。西厚保の中で、こんな親はほかに誰もいなかったでしょう。
父の昭和ととともに歩んできた人生は終わりました。戦争によって青春時代を奪われ、就職先を奪われ、自分の意でなく妻を娶る・・・辛抱を重ねて戦後をたくましく生きた戦中派は、父のほかにもたくさんおられましょうが、私は父の人生を私の父親だからこそ尊敬する。『父よ貴方は偉かった』と唄って賞賛したいと思うのです。
母はいまだ夫の死をうまく受け入れていない状況です。隣のベッドがいつも空いていることを不審がって「爺様は病院ですか」と繰り返し訊ねているそうです。 (以上、一部拙本「経済人の雑記帳」から引用しました)